フィッツジェラルド「残り火」('The Lees of Hapiness', 1922)について
ブログの最初の記事は何について書こうかと思ったとき、ブログタイトルとして拝借したF.スコット・フィッツジェラルドの「残り火」について感想を書くことにした。
フィッツジェラルド24歳の時の作品である。かくいう私も、今年で24になるのでこの作品に妙な親近感のようなものを抱いている。
そんなことはさておき、フィッツジェラルドと言えばディカプリオ主演の『偉大なるギャツビー』やブラッド・ピット主演の『ベンジャミン・バドン』の原作として知られている作家だろう。
(映画と小説の関係、すなわちアダプテーションについては今後テーマにしていきたいがそれはまた別の話)
恐らく原作を読んだり、映画を見たことがなくとも、薄ぼんやりと名前を聞いたことがある人も多いのではないだろうか。しかし私はこれらの有名な作品より、いささかマイナーな、それでいてあまり派手とは言えない、むしろ地味なこの作品にとても心が惹かれて仕方ない。
簡単にあらすじを述べると、小説家のジェフリー・カーテンと妻で元女優のロクサンヌ・ミルバンクは、ホテル暮らしを経てシカゴから半時間のマーロウという街近くに越してきた。ジェフリーの親友のハリーを招いたりと、気ままな新婚生活を謳歌する若き夫婦の生活に、突如変化が起こる、というものだ。
この夫婦の幸せな描写は多くない。物語の半分は意識の戻らないジェフリーに付き添うロクサンヌに焦点が当てられている。
フィッツジェラルド作品に登場する女性のイメージは、気ままに遊びまわるフラッパーで占められていたが、ロクサンヌは物語の冒頭でこそ子供っぽい印象を与えていたものの、フラッパーのイメージは感じられない。(ちなみに『グレート・ギャツビー』の出版はこの作品の3年後の1925年である)
ロクサンヌは夫の死を静かに迎えることを通して、その若さでどこか落ち着いた雰囲気を醸し出している。いささか感傷的な読みではあるが、夫を失ったロクサンヌ、家庭が崩壊してしまい孤独を抱えるハリーの交流の中には、全体を通して悲哀に包まれた物語に、どこか切ない暖かさのようなものがあるような気がする。物語の最後に描かれる月は、悲しみに覆われた二人を切なく照らす。同じように大切なものを失った二人を静かに照らす月。フィッツジェラルドはこの悲しみに丁寧に焦点を当てて描いている。
一般的に短編は駄作だといわれがちのフィッツジェラルドだが、彼の作品は時折こうしたやりきれない感情を非常に丁寧に描いたものがある。ロクサンヌと対照的に描かれたハリーの妻キティにも着目する点は多そうであるが、またの機会に。
ところで村上春樹はこの小説を「残り火」と訳しているが、'The Lees of Hapiness'、つまり幸せの残りかすなわけである。ロクサンヌが最初の方でビスケットを作るのだが、 失敗してしまう。そのときジェフリーが落ち込むロクサンヌを慰めながら、ビスケットを壁に打ち付けるシーンが印象的である。壁に打ち付けられて落ちたビスケットの残りかすのような、ジェフリーとの幸せな記憶と共にロクサンヌは物語以降、生きていくのだろうか、なんて不毛な想像をタイトルからしてしまうのであった。