John KeatsのOdeに感じるもの
ブログを書こうと意気込んだのは、驚くことにもうずいぶん前の話だった。
6月に一度記事を書いたくらいで満足していた辺り、私の継続力のなさが垣間見れる。
そんな話はさておき、今日は少しだけJohn Keatsのオードに少しだけ話の焦点を当てよう。
イギリスの詩人キーツは、バイロン、シェリーと並ぶロマン派に属するが、彼が最も感傷的でロマンティックなpoemを書いているのではないかと私は思う。
わずか25歳でこの世を去った詩人の詩には、この世の死への恐れ、あらゆる雑念が自然の美しさへ昇華されている印象を受ける。
ロマン派よろしく、想像力で足元の花の形を掬い取るOde to a Nightingaleのある場面は、とりわけ私のお気に入りである。
I cannot see what flowers are my feet,
Nor what soft incense hangs upon the boughs....
月明かりの他は何もない森の暗がり。
詩人は闇夜の中でイマジネーションの世界に感覚を委ねる。
儚さを帯びるキーツの色彩表現と自然豊かな詩の中に、彼自身の人生の淡く消えゆくものを感じずにはいられない。
聊かこれも感傷的な読みだろうか。
ところで薄命を思わせる和歌をひとつ思い出した。
君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな
作者は藤原義孝。初めて想い人の女性と一夜を遂げた後に詠んだ後朝の歌である。
この歌を詠んだのち、わずか21歳で義孝はこの世を去った。
恋が叶うまで惜しくないと思っていた命が、貴女と過ごしたことで少しでも命永らえたいと思うようになった、と歌う和歌は、義孝自身の薄命さを連想させる。
人はいつまで生きるのか分からない。
長く長く、穏やかな人生を歩む人もいれば、キーツや義孝のように、一瞬のきらめきを残して生涯を短く閉じる人もいるだろう。
どちらが良いのか、どちらが幸福かなど、他人の尺度で測りきれるものではない。
生きることは辛く長い道のりかもしれない。
自分の人生のきらめきが、いつなのか、はたまた残りの命のともしびがどのくらいなのか今の私にはわからない。
だがこの一瞬のきらめきを掴み損ねることがないよう、今日はいつもより感傷的に、目を閉じてみたいと思うのである。